2009年01月12日

第8回世界探検旅行1 北京

20-02.jpg20-03.jpg 菅野力夫の第8回世界探検旅行 
 菅野力夫は、昭和12年12月30日第7回世界探検旅行フィリピンから帰ってきた。翌昭和13年10月から昭和14年5月まで、北中部日中戦線59ヶ所踏査という最後の第8回世界探検旅行を行った。この時の陸軍新聞班、関東軍司令部、各特務機関への紹介状、許可証などが残されているが、日中戦線最前線の取材、写真撮影などを行っている。そのアルバム、ネガも残っている。菅野力夫の探検家だけでなく、フォトジャーナリストとしての証となる貴重な資料であり、日中戦線の写真での歴史の証言者でもある。
 当時の菅野の記録では、昭和13年11月末の北京は、日本人24658人(朝鮮人、台湾人含む)先月より983人増加。旅館101、カフェー47、下宿屋70、料理店66、飲食店132、喫茶店14、芸妓、酌婦、女給約1000名となっている。


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2009年01月04日

第7回世界探検旅行10 マニラ2

alb18-98.jpgalb18-101.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
 マニラ滞在中、12月7日にはマニラ郊外のロスバニオス温泉に行き、ホテル日本館南海温泉に宿泊。菅野力夫は、第3回世界探検のさいジャワでも温泉に入っている。晩年は郡山でしょっちゅう近くの磐梯熱海温泉に行っていたというから、かなりの温泉好きだったようだ。昭和12年12月現在フィリピン群島在留日本人約23000名と記録している。12月22日大阪商船ガンジス丸にてマニラを出航、26日台湾基隆、27日基隆出港29日下関上陸。30日東京着。当時、下関東京間は急行で8時間30分だった。
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2008年12月28日

第7回世界探検旅行9 マニラ

alb18-94.jpgalb18-95.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
 バギオ、ボントックから11月26日マニラに入る。マニラには1ヶ月近く滞在している。フィリピン滞在98日。マニラに入り11月28日にはマニラ日本人小学校創立20周年祝賀記念大運動会が行われた。マニラ日本人小学校は、職員16名、児童571名の規模だった。12月19日にはマニラ日本人小学校卒業証書授与式にも参列。その夜河野辰二校長に招待され西班牙料理を賞味する。
 またバギオに行く前の11月14日には、マニラ日本人青年団主催の第5回陸上競技選手件大会も催された。この日青年団主催の講演会が行われ、聴衆1000人、講演は4時間にわたって行われた。
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2008年12月22日

第7回世界探検旅行8 ボントック

alb18-81.jpgalb18-85.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
11月22日、福島県人会会長須田氏の車でバギオから150キロ離れたボントックへ向う。ここの住人はイゴロット族で当時裸体生活をしていた。この地方には世界7不思議のひとつ、階段式水田あり、数千尺の大渓谷の斜面に石垣を築き稲田を作る。その規模の大、山水の美は天下の奇観である。ボントックには在留邦人17名。唯一の日本商店である足立商店があった。
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2008年12月15日

第7回世界探検旅行7 バギオ

alb18-67.jpgalb18-70.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
セブから11月3日マニラに上陸。マニラで講演をしながら10日ほど滞在し、バギオに向かう。バギオでは、日本人700名が犠牲となり明治36年開鑿されたベンゲット道路と金山を視察。ベンゲット道路の開通によって、その開鑿工事に従事した日本人は2000数百人。工事後多くの日本人がダバオに移住した。昭和12年のバギオには、在留日本人825名、日本人小学校、校長村井熊雄氏職員7児童142の記録がある。またバギオには福島県人会があり、会長は須田氏で、須田氏は自家用車2台、トラック58台を有し木材運搬業を営む自力奮闘の成功者なり。
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2008年12月07日

第7回世界探検旅行6 セブ

alb19-46.jpgalb19-47.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
10月27日ダバオ出航、途中サンボアンガに寄航し、10月30日セブに上陸。セブには3日滞在しただけでマニラに向かう。昭和12年(1937)当時のフィィピンは、アメリカの統治から1934年にアメリカは10年後のフィリピンの独立を認め、独立準備政府が樹立。1935年にマニュエル・ケソンが大統領に就任。実際はアメリカの傀儡の状態だった。明治以降、海外にいろんな日本人が進出していたが、日本に近い国のひとつフィリピンにも、多数の日本人が進出。菅野アルバムを見ると、セブにも日本人街があった。セブ日本人小学校もあり、職員4名、児童31名。菅野は日本人会主催の講演会も行っている。
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2008年11月30日

第7回世界探検旅行5 ダバオ2

alb19-12.jpgalb19-15.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
9月15日にダバオに到着し10月27日ダバオを出航。約1ヶ月半の滞在。この間、1週間の北ミンダナオ視察、ダバオ周辺の日本人の街を諸所訪ね大歓迎を受け、講演も21回行っている。
昭和12年当時、ダバオに日本人が移住し30数年がたち、ダバオ州在留日本人16000人、麻の栽培と林業が主な日本人の仕事。領事館があり、日本人小学校が13、日本新聞社4社、日本病院2ヶ所あった。菅野はダバオの印象を、麻の産地ダバオの開発の恩人たる大和民族が日本政府からの一切の援助もなく、全く裸一貫より築き上げた30余年間に亘る血の歴史により開拓されたる偉大な我同胞の独立奮闘せる勇姿を視て讃嘆す。
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2008年11月23日

第7回世界探検旅行4 北ミンダナオ

alb19-33.jpgalb19-35.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
ダバオ在住の日本人7名と菅野は、車2台で北ミンダナオの富源視察旅行に出る。コタバト州、ラナオ州、東ミサミス州、ブキドノン州、7日間、1300キロの行程だった。コタバト州コタバトには日本人55名在留、ラナオ州ダンサランには唯一の日本人・松井愛助夫妻が28年間生活していた。ブキドノン州マライバライには在留日本人は雑貨商1軒のみ。群猿飛ぶ森林地帯を通り、モロ族の酋長を訪ね、豪雨の悪路を水牛に索すなど徹夜泥雨と戦う難行苦行の旅だった。
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2008年11月17日

第7回世界探検旅行3 カリナン

alb19-06.jpgalb19-07.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
明治末からダバオへ日本人が移民し、ダバオの北西約40キロにあるカリナンの町にも日本人の移民は多く、菅野の行った昭和12年には、ダバオ州の在留日本人は約16000人、カリナンには約4000人の日本人がいて、日本と同じ町並みが広がっていた。9月と10月の2回菅野は講演をカリナンで行っている。
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2008年11月10日

第7回世界探検旅行2 ダバオ

alb19-04.jpgalb19-24.jpgalb19-25.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
第7回遠征先は、比律賓、フィリピンだ。
昭和12年8月30日東京駅を出発。翌31日神戸から台湾を経由して9月9日マニラに上陸。
9月15日ミンダナオ島ダバオに上陸。数日、在留の日本人の組織、会社などを挨拶に廻る。
9月20日三井物産経営森林伐採製材輸出業タゴン商事会社を訪ね、聴衆50人を前に講演をする。翌21日、タゴン商事会社直轄権利保有林八萬六千町歩原始林地帯の一部を跋渉し森林伐採の実況を視察する。
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2008年11月03日

第7回世界探検旅行1 東京駅

alb19-03.jpg菅野力夫の第7回世界探検旅行
4月の越後会津旅行から戻り7月まで国内の講演会を各地で行い、8月にいよいよ第7回世界探検旅行に出発する。出発までの行動は以下の通り。
7月15日 東京十文字高等女学校にて第二回講演(校長十文字琴子氏生徒1000人)
7月29日 新築成る世界三大劇場の一、松竹経営浅草の国際劇場を観る
7月31日 故黒龍会長内田良平氏の青山斎場に於ける神式告別式に礼拝
8月4日 故法学博士花岡敏夫氏の築地本願寺に於ける告別式に焼香なす
8月15日 下総国成田山新勝寺参詣。
8月21日 大阪商船会社東京支店より横浜ダバオ間シカゴ丸一等乗船切符を購ふ
8月22日 横浜港碇泊シカゴ丸に比律賓行荷物を積込。
8月26日 頭山満先生を御殿場の別荘に訪問比律賓行暇乞いをなし、大掛軸二幅贈られ感激す
8月29日 金弐萬圓也、日本生命保険会社と生命保険の契約を成す。
8月30日 東京駅発午前9時特急つばめにて第7回万里遠征の途に上り 帝都出発
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2008年10月26日

昭和12年越後会津旅行 磐城平

alb18-20.jpg菅野力夫昭和12年越後会津旅行
4月27日 一行は若松に於いて解散。主催者天鬼将軍薄益三氏の厚意を謝して別れ、予は更に頭山先生に随伴なし激戦中の福島県第三区選出衆議院議員候補者星一氏陣中慰問のため磐城平市に向ふ。平駅頭は頭山先生の風貌の接せんと熱狂せる市民市民数千名万歳を以って迎ふ。白頭星一氏この光景に感激す。
平小学校講堂における平市民の頭山先生歓迎会に謝辞を代弁す。頭山先生は星氏選挙区内各所を巡遊なし帰京す。予は頭山先生代理として星候補者に応援の弁を振ふこととなり平市に留まり獅子吼す。
 上記、星一とは星製薬の社長であり作家の星新一の父親だ。菅野は第3回世界探検の時、ペルーで星製薬所有の土地の探検をおこなっており、頭山満を介してか、あるいは同郷福島人ということでしりあいだったのか不明ではあるが、以前から星一と交遊はあったはずだ。
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2008年10月18日

昭和12年越後会津旅行 会津

alb18-18.jpgalb18-17.jpg菅野力夫昭和12年越後会津旅行
4月25日一行は更に桜を追ふて会津東山温泉着向瀧温泉に投宿なす、
頭山先生は58年振りに会津の地を踏み感慨無量。
4月26日一行は会津鶴ケ城跡を訪ひ戊辰の戦跡を視て忠烈悲壮鬼神も泣く白虎隊の英霊を弔ふ。
同夜、会津若松有志五十余名の向瀧に於ける頭山先生歓迎会に一行を代表し謝辞を述ぶ。
会津若松では、鶴ケ城だけでなく、山鹿素行誕生の地、蒲生氏郷の墓に詣でている。菅野も旧制安積中学を中退し頭山の門下に入り、明治44年以降世界探検旅行をなし一家をなし、今その頭山と共に故郷を旅し、何十人もの人々に歓迎され感慨ひとしおだろう。
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2008年10月11日

昭和12年越後会津旅行 新潟2

alb18-06+10.jpg菅野力夫昭和12年越後会津旅行
4月23日午前7時30分新潟駅着。一行は新潟有志に迎へられ世界第一桜堤 六里越後加治川に舟を浮かべ観桜の宴を開き爛漫たる桜花に酔ふ。
4月24日 東洋第一新潟チューリップ花園を観る。越後有力者關塚惣吉 氏外有志主催の割烹店鍋茶屋に於ける頭山先生歓迎会に陪席なし新潟 美人に酔ふ。
新潟観桜旅行は以上のような日程で行われた。菅野は桜に酔い新潟美人に酔った2日間だった。一行は25日には新潟から会津へ向かった。
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2008年10月05日

昭和12年越後会津旅行 新潟1

alb18-1+2.jpg菅野力夫昭和12年越後会津旅行
台湾、南支那講演旅行は、1月14日から4月20日台湾基隆から下関に帰着。途中熱海に一泊し東京に戻る。4月22日午前9時10分東京駅着。偉人83翁に随伴し一行8名上野駅発午後10時35分の列車にて新潟に向かう。98日振りに帰宅し当日すぐに新潟に出発するとは、流石菅野力夫といえる。この新潟行きは、天鬼将軍・薄益二氏主催「頭山満翁慰安観桜会」に招待されたためで、その後頭山翁に随伴し会津、磐城と訪れている。
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2008年09月29日

昭和12年台湾南支那旅行7 タロコ

alb18-42.jpg菅野力夫昭和12年台湾南支那旅行
 現在もタロコ渓谷は観光名所となっているが、昭和12年の頃は漸く道路ができ車でいけるようになったようだ。台湾には漢人が来る前からの原住民族(台湾では先住民ではなく原住民)がいたが、18〜19世紀にかけ平地に住み漢化が進んだ原住民族を「平埔番」と呼び、特に漢化が進んだ原住民族は「熟番」と呼ばれた。漢化が進んでいない原住民族を「生番」または「高山番」と呼ぶようになった。日本統治時代に「平埔蕃」を「平埔族(へいほぞく)」、「生蕃(せいばん)」を「高砂族(たかさごぞく)」というようになった。現在政府認定14民族に分類されている。サイシャット族(賽夏族) タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも) アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用してパンツァハ族とも呼ばれる) ツォウ族(鄒族) など。写真の女性たちはタロコ族だろうか。
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2008年09月23日

昭和12年台湾南支那旅行6 東海岸

alb18-48.jpg菅野力夫昭和12年台湾南支那旅行
台湾は南北に細長い島でその真ん中より右側、つまり東よりに大山脈が通っていて、平野部は西海岸側に多く、東海岸は平野が狭く山が迫っている。台北から台東までの当時の菅野の記述。
「台北発蘇澳及花蓮港を経て台東へ向ふ。蘇澳、花蓮港間三十一里の臨海道路は国幣五百萬圓と十五ケ年の歳月を費して完成せる東洋第一の自動車専用道路にして、太平洋の波浪は千数百尺の脚下に見え壮快を極む」
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2008年09月17日

昭和12年台湾南支那旅行5 台東

alb18-39.jpg菅野力夫昭和12年台湾南支那旅行
 鵞鑾鼻灯台を訪れた後、台北に戻り、今度は台湾の東海岸を訪れている。蘇、花蓮を経て台東へ。当時台東には星薬科大の創設者でSF作家星新一の父親である星一が経営していた星製薬が、キニーネを栽培するために、農園を持っていた。「星製薬会社経営台東庁知本規那造林所を訪ひ所長工藤彌九郎氏に迎ヘラレ原始林開拓の規那栽培地を視察し同夜知本温泉に泊る」
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2008年09月09日

昭和12年台湾南支那旅行4 鵞鑾鼻灯台

alb18-32.jpg菅野力夫昭和12年台湾南支那旅行
厦門、福州、汕頭から台湾に戻ってきて、3月23日に台湾最南端の鵞鑾鼻灯台を訪れている。当時灯台の横には鵞鑾鼻神社があったようだ。写真のように鳥居はアルバムの説明には鯨の牙とかいてある。牙は鯨にはないから骨だろうか?ともあれ神社は今はないだろうが、この鯨の鳥居が残っていたらおもしろいだろうな。第二次世界大戦以前、ここが日本の最南端だった。そして最北端は樺太だった。
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2008年09月03日

昭和12年台湾南支那旅行3 福州

alb18-60.jpgalb18-61.jpg菅野力夫昭和12年台湾南支那旅行
厦門から福州へ。6日滞在。往きは大球丸という船で、ここで「同郷の一等航海士佐久間武雄君と奇遇故郷を語る」。帰りは陸路で厦門へ。途中泉州で1泊している。福州では3月8日に福州日本小学校(職員6名、児童75名)と福州東瀛学校(職員11名、児童340名)、3月9日福州日本居留民会、福州台湾公会の主催、福州日本帝国総領事館の後援で聴衆200名を前に講演をおこなっている。福州の港風景も厦門と同じ、70年前の風景は今はなしだろう。
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