2008年02月29日

第2回世界探検旅行 上海2

wt-2006.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
北京、天津のあと漢口に行く。大正4年4月26日には、在漢口中支派遣隊営門前で、司令官白川中佐(後に陸軍大将)らと一緒に写っている写真がアルバムにある。そして上海。写真のように腸チフスを発症、入院。退院後帰国。別府温泉で療養。もし病気にならなければパプア・ニュー・ギニアへ行くつもりだった。本人が一番残念だったろうが、100年近く前のパプア・ニュー・ギニアの写真も見たかった。非常に残念だ。
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2008年02月27日

第2回世界探検旅行 天津2

alb05-23.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
 天津の日本租界にあった大和公園と奥の洋館は、日本人民團事務所と公会堂。日本人民團事務所とは何をしていた事務所かは不明。当時大和公園内には天津神社があり、ほかに租界内には、領事館、淡路小学校、武徳殿などが建てられた。今はほとんどの建物が残っていない。
しかし多いときでは日本を含め9カ国が天津に租界を持っていた。まだまだ当時の建築物は天津の街に残っている。特にイギリス・ドイツの租界のあった辺りに多く残っている。
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2008年02月23日

第2回世界探検旅行 北京

alb05-10.jpg11pc2-2.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
 絵葉書に「北京城外驢馬曳く支那少年背上に跨る 菅野力夫」とある。驢馬と駱駝の違いはあるものの、同じ城壁に見えるため、アルバムの写真の場所も「駱駝の背上北支那旅行」とあるが、北京の紫禁城の城壁と思われる。第2回世界探検旅行の写真で、北京の写真はこのアルバムの駱駝の写真と絵葉書の驢馬の写真しか残っていない。北京にはあまり滞在しなかったのだろうか?
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2008年02月21日

第2回世界探検旅行 天津

alb05-07.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
青島周辺を訪ね歩いた後、北京、天津を訪れている。天津で当時あったヴィクトリア公園でインド人巡査とツーショット。菅野力夫は第1回世界探検旅行の時から、どこの国でも地元の人たちと一緒に写真を撮っている。さらに、軍人、警官などとも一緒に撮っている写真が多々ある。度胸がいいというか、物怖じしない人というか、感心してしまう。
 大正3年(1914)当時、天津に租界を持っていた国は、日本、英国、フランス、ドイツ、ロシア、ベルギー、イタリア、オーストリアなどで、中国の中で租界が一番多かった都市だ。ヴィクトリア公園は現在中山公園となっている。
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2008年02月18日

第2回世界探検旅行 青島

alb04-56.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
 沙河口工場から大連に戻り、3月16日まで大連での写真がアルバムにある。そして3日後には青島のここ独逸軍記念碑での写真となる。自転車で陸路を行ったのではなく、黄海を大連から船で渡ったのだろう。あるいは鉄道を使ったのか?
 このドイツ語の記念碑のあった神尾山は、ドイツ占領時代はアルバムにはシグナルベルグ山、他の文献には「デイデル山」あるいは「ディーデリッヒ山」、どちらも初代ドイツ膠州湾総督ディーデリッヒに因んで名づけられたそうだ。そして日本占領時代になって神尾司令官に因み神尾山と名づけられ、ここには旧ドイツ膠州湾総督官邸と無線電信信号所があり、そのまま青島守備軍司令長官邸となった。現在もその建物は残っていて、青島迎賓館となっている。そして神尾山は信号山という名称となり、観光名所となっている。
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2008年02月16日

第2回世界探検旅行 沙河口

wt-2004.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
 昭和17年に新京に移転するまで、大連には満鉄本社があり、大連市外の沙河口に満鉄の工場があった。工場面積60万坪。東京ドームの1500倍以上に広さがあり、昭和12年で日本人約2400人、満州人2300人が働き、専用水道、発電所があり、満鉄のみならず旧満州諸国の汽車製造、修理を行っていた。昭和になって登場した特急あじあもこの工場で作られた。
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2008年02月15日

第2回世界探検旅行 大連

wt-2003.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
撫順から2月24日には遼陽へ。そして3月にはいって大連へ。南満州鉄道が経営していた大和ホテルの前の菅野力夫。いままで、シベリア、フラルキ、撫順では写っていなかった日比谷公園を出発した時の自転車が、大連に来てようやく登場。秋から冬にかけてのシベリアでは自転車は無理だという判断で、舞鶴港を出るとき自転車は最初から大連に送っていたのだろう。多分今までは鉄道で移動。もしかしたら厳冬のシベリアは鉄道がはしっていなかったら、ソリで町から町へ移動したのだろうか?ともあれ大連からは自転車旅行になったようだ。
大連大和ホテルは今は大連賓館として残っている。1914年に開業。この写真は開業間もない大和ホテルの写真だ。
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2008年02月13日

第2回世界探検旅行 撫順

alb04-38.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
大正14年の正月は、富拉爾吉(富拉爾基=フラルキ)で迎えたようだ。そして哈爾濱(ハルピン)を経由し2月に撫順へ。撫順は以前から炭鉱の町で、露天掘りが有名だった。この写真は大山坑。露天掘りだけでなく大山坑、龍鳳坑など竪坑もあった。撫順は、当時の南満州鉄道奉天から撫順までの支線ができていた。
 撫順炭鉱は,日露戦争後、鉄道及びその付属地は日本の手に渡ってから満鉄の管理下で発展していった。露天掘りによる大規模な石炭採掘が行われ満鉄の重要な財源となった。撫順市の人口は、1940年で25万(内、日本人約4万人)を超えた。また撫順の石炭と鞍山の鉄鉱石で、当時中国最大の鞍山製鉄所(昭和製鋼所)が稼動した。
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2008年02月07日

第2回世界探検旅行 西比利亜2

wt-2001.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
11月16日チタの教会の前で撮った写真の次は、11月20日ザバイカル州スツレチエンスク市、そひてザバイカル州ウエルフネウジンスク市をとおり、11月26日バイカル湖近くのイルクウッスクー市(イルクーツク)へやってきた。写真からわかるように11月でも雪に閉ざされたシベリアを訪ねた目的は何だろう?また日本で使っていた自転車はどうなったのだろう?
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2008年02月06日

第2回世界探検旅行 西比利亜

alb04-15.jpg菅野力夫の第2回世界探検旅行
大正3年(1914)8月1日、日比谷公園を宮田自転車で出発。東海道を自転車で行き神戸へ、そして福井県舞鶴港から大阪商船鳳山丸に乗り出航、東京を出て約2ヶ月、9月27日浦潮斯徳に上陸。10月20日ブラゴウエシチェンス市、10月30日アムルスケ州アレクセウスク市11月初旬アムール州アレキセーウスク市、そしてこの写真のチタ市へやってきた。地名はすべてアルバムに記されていたまま。浦潮斯徳はウラジオストク、ブラゴウエシチェンス市はブラゴヴェシチェンスク市でアムール州の州都。アムルスケ州アレクセウスク市とアムール州アレクセーウスク市は同じだと思うが、現在名は不明。
菅野はウラジオストクから中国との国境沿いをシベリアの内陸に向って進んでいった。シベリアは、この後混乱の時期を迎える。1917年ロシア革命、1918年日本のシベリア出兵となるが、1914年頃はまだ落ち着いていたのだろうか?この時期だから菅野はシベリアに向ったのか?しかし、冬に向っていくシベリアに行くことに意味があったのだろうか?この年のこの時期にいかなければならない理由があったのだろうか?ともあれこの写真の教会は今もチタにあるのだろうか?
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